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琴言譚[きんげんたん]

今、救世主なら語る

海洋大国ニッポン、『脱』欧米化で次代を拓け

⚫️海洋大国ニッポン、
『脱』欧米化で次代を拓け

日本は小さな島国ーー。確かにそうだ。領土面積はわずか約38万平方キロメートルと狭く、世界でみると第61番目のポジションにとどまる。ロシアの45分の1、中国や米国と比べても25分の1に過ぎない。

ところが国土の周りの海に目を転じてみるとどうだろう。領土は一気に広がりEEZ排他的経済水域)と領海を合わせるとその広さは世界第6位にまで広がり、世界でも有数の海洋国家としての側面が浮き彫りになる。

しかも領海のほとんどは1年間を通して凍ることがない。年間を通じて漁業を営むことができ、暖流と寒流が入り交じる多彩な漁場を抱える領海を有する国は世界でもほとんどない。大陸棚が広がっているかと思えば日本海溝のような深海もあり、このおかげで魚種も極めて豊富だ。イワシのような小魚からイルカやクジラのような大型魚種まで幅広く生息しており、食糧の安全保障上、かなり利点は大きい。

仮に捕鯨問題などがこじれ日本向けの水産資源の輸出がストップしたとしたらどうだろう。

実は「全く問題がない」というのが正解だ。もちろん燃料費や人件費などを加味し、採算ベースで考えていけば、今のような価格帯で水産資源を安定確保するのは難しいかもしれない。

しかし、価格をいったん横に置けば、日本は自給自足していけるだけの水産資源の量を確保していくことは十分に可能だ。

 今回の水族館のイルカ入手問題で日本動物水族館協会(JAZA)が外国に屈した事件は、極めて重要な問題を提起している。日本は自国の文化を投げ捨ててまで、外国におもねらねばならないのか、そうまでしなければ水産資源を確保できないのか、という問題だ。

これだけ広くしかも豊かな漁場を抱えていながら「そうだ。日本は世界の国々と協調しなければ十分に食卓の魚を確保できないのだ」という人は誰もいないだろう。

ならば、思い切って外国との多少の摩擦は覚悟して、自国の文化を守り抜く選択肢もあっていいのではないか。

 興味深いのはJAZAが「苦渋の決断」として和歌山県太地町の追い込み漁で捕獲したイルカを今後、加盟水族館で「受け入れない」と決定したのとほぼ同時に、欧州連合(EU)の議会で、「フォアグラの輸入と販売を禁じる」とする提案が否決されことだ。JAZAは大騒動になったのに、こちらはほとんど海外でも問題視されず、むしろ今回の決定に「フランスの文化が守られた」とする人々が決して少なくない。

 確かにフォアグラは美味であり、フランス料理でなくてはならない高級食材であるが、その作りかたはかなり不自然だ。ガチョウやカモの口に特殊な器具を挿入し、そこに柔らかく蒸したトウモロコシなどのエサを流し込み肝臓を太らせる。

これこそ「残酷」という部類に入ることは間違いない。JAZAの問題は根本にはクジラを食べる日本へのけん制という意味合いが強いが、海洋資源に恵まれた日本の国民が、その生命を維持するためクジラを食べることと、ガチョウやカモの肝臓を不自然に太らせることを比較した場合、いったいどちらが残酷な行為だと言えるのだろうか。

 日本人はここでハタと考えなければならない。クジラを食べることが「野蛮」ならフォアグラをつくることも「残酷」でなければならない。むしろ生命維持のため、人が食物連鎖のなかに組み込まれ、やむを得ずクジラを食することよりも、美味という人間にとっての快楽を得るために、ガチョウやカモを人工的に太らせる行為のほうが、倫理に反するはずだ。

なのに実態は日本がクジラを食することが「黒」で、フォアグラは「白」というのが国際的なコンセンサスなのである。少なくとも日本が今後、生きていこうと考えている「国際社会」という枠組みではという話だが…。

日本は本当に大丈夫なのか。食文化も認めてもらえないそんな「国際社会」のなかで何を得ようというのか。クジラの問題は決着したとしても今後、いくつもいくつも同じ価値観の相違という問題が浮上してくることは間違いない。その度に日本は国を譲り、文化をあきらめ続けていくのか。

そろそろこの「国際社会」の枠組みを脱し、別の「国際社会」のなかで生きていく道を模索する段階に差し掛かっているのではないだろうか。