琴言譚®︎[きんげんたん]

今、救世主なら語る

起死回生の鉱脈は足元にあり -ーニッポンに石油が沸いた-ー

⚫️ニッポンに石油が沸いた

噴き出した石油が止まらない――。何も中東の巨大油田地帯の話ではない。日本での出来事だ。2013年4月、新潟市秋葉区の住宅の敷地内から石油とガスが噴出、2年以上、たつにもかかわらず、沸きだした石油が今だ止まらないのだ。新潟市秋葉区の担当者は「今日も現地に視察に行ったのだが、有効な手立てはない」という。しかしだ。なぜ、この出来事、「有効な手立てを探す」といった類の話になるのか。これは僥倖である。省資源国ニッポンに石油が湧いたのである。これを見逃してはならない。日本国が世界で勃興するための足がかりとなるはずだからだ。
ことの次第はこうだ。4月27日、同区に住む山田隆さんの自宅の床下と隣接して所有する空き地の地面に突然、複数の穴が空いた。そしてこの穴から大量の泥水が溢れ出てきたのだ。しばらくするとこの泥水が異臭を放ちだした。よく嗅いでみると石油の匂いだ。山田さんはすぐさま役所に連絡、指示を仰いだものの役所側は慌てるばかり、そして今に至ったが、状況はなんら変わっていない。

もともと石油が噴出した新潟市秋葉区の新津地区は石油との縁が深い。「日本書記」にも「越国から燃土、燃水が献上された」とあり、その燃える土や水が採取されていたのは、この新津地区である。もっと近い歴史をたどれば、明治後期から大正にかけて新潟県内には4つの油田があり、今回、石油が噴き出した新津地区はそのなかでも最大級の新津油田があったエリア。1917年に年産12万㌔㍑と産油量日本1を誇った油田があった地域なのだ。

そこから石油が湧いた。掘りもしないのに、かなりの量が出たのである。1日300リットルを超える量がでる日もあり、石油は1カ月でドラム缶4本分にもなる。

⚫️早すぎるダメだし
石油がないはずの日本で、石油が自噴した。事実なら小躍りしてもいいはずの出来事なのだが、周囲の反応は意外に冷めている。秋葉区は「噴出した石油で公害が起きないようにしている」(区民生活課)とまるで危険物扱いで、石油やガスによる引火・爆発を防ぐため石油が噴き出した民家の周辺に「電気製品使用厳禁」や「火気厳禁」を訴える看板を接地して注意を喚起しているほど。当の山田さんも油の回収に1日に何時間も費やし、資金も100万円近くかけたと迷惑顔だ。

ただ、こうした周囲や当事者の反応には理由がある。新潟市国際石油開発帝石に噴出した石油の成分を分析してもらったところ「品質が悪く、使えるレベルのものではない」との結論だったというのだ。
確かにそうだろう。あえて掘削して掘り当てた石油ではなく、わざわざ地層の切れ目を縫って沸き上がってきた石油である。そのまま使えるほど品質がよいはずはない。泥も小石も水も混じっているのは当然だ。これをもって「使えない」と判断するのはあまりにも早計ではないか。


重要なのは日本の精製レベルの高さだ。エネルギー安全保障上の問題もあって日本は世界中のいかなる原油であっても、沸点などを調節しながらガソリンなど石油製品に仕上げていく精製技術を持つ。省資源国とされたが故にどんな原油からでもガソリンをとる力を懸命に磨いたのだ。例えば日本には※アラビアンライト原油と呼ばれるサウジアラビア産の軽質原油が回ってくることが多いが、この原油などは硫黄分が多い重い原油で、これを高性能の脱硫装置を使って硫黄を抜き、石油製品に仕上げていく技術などは世界最高水準だ。こういった技術を使えば、精製できない原油はない。新潟市秋葉区から噴き出した原油も当然、精製できないはずはない。それにも関わらず「品質が悪く、使えるレベルではない」というのはどういったことか。「日本には石油はないはず。あっても使えない」という固定観念に縛られ過ぎているのではないか。

⚫️黄金の国の設計図


 原油という蜜が流れる大地はそう多くにない。その蜜を求めて人類は海の底であっても掘り進める。例えば米メキシコ湾にエクソンモービル保有する油田などは現在、水深8600フィート(約2580メートル)の深さにある。このエリアでは年々規模の拡大が続いており、水深10000フィートを超える掘削リグの設置計画を持つ社もあるほどで、逆に言えばそこまでパイプを延ばさなければ、掘削地点にまでたどり着かないのだ。しかも、その海底の掘削ポイントには何も石油がにじみだしていたわけでも、ましてや自噴していたわけでもない。超音波などで技術を駆使してようやく割り出している。
それから考えればどうだろう。新潟市秋葉区には石油が自噴する、しかも陸上のポイントがある。これほどの僥倖を見逃していては、神の恩寵を取りこぼしているといっても過言ではないだろう。(了)

※アラビアンライト原油とは…
http://www.weblio.jp/content/アラビアン・ライト原油
《関連記事》
日本経済新聞2013.8.22『国際帝石、新潟市の石油噴出にトラブル解消支援』
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXNZO58801610S3A820C1L21000/
新潟日報2013.8.19【新潟石油頻出】止まらぬ石油、住民悲鳴-1200リットル以上を回収-民有地からの石油噴出に行政は手出しせず
http://azarami.blog.fc2.com/blog-entry-809.html?sp

海洋大国ニッポン、『脱』欧米化で次代を拓け

⚫️海洋大国ニッポン、『脱』欧米化で次代を拓け

日本は小さな島国ーー。確かにそうだ。領土面積はわずか約38万平方キロメートルと狭く、世界でみると第61番目のポジションにとどまる。ロシアの45分の1、中国や米国と比べても25分の1に過ぎない。

ところが国土の周りの海に目を転じてみるとどうだろう。領土は一気に広がりEEZ排他的経済水域)と領海を合わせるとその広さは世界第6位にまで広がり、世界でも有数の海洋国家としての側面が浮き彫りになる。
しかも領海のほとんどは1年間を通して凍ることがない。年間を通じて漁業を営むことができ、暖流と寒流が入り交じる多彩な漁場を抱える領海を有する国は世界でもほとんどない。大陸棚が広がっているかと思えば日本海溝のような深海もあり、このおかげで魚種も極めて豊富だ。イワシのような小魚からイルカやクジラのような大型魚種まで幅広く生息しており、食糧の安全保障上、かなり利点は大きい。

仮に捕鯨問題などがこじれ日本向けの水産資源の輸出がストップしたとしたらどうだろう。実は「全く問題がない」というのが正解だ。もちろん燃料費や人件費などを加味し、採算ベースで考えていけば、今のような価格帯で水産資源を安定確保するのは難しいかもしれない。しかし、価格をいったん横に置けば、日本は自給自足していけるだけの水産資源の量を確保していくことは十分に可能だ。
今回の水族館のイルカ入手問題で日本動物水族館協会(JAZA)が外国に屈した事件は、極めて重要な問題を提起している。日本は自国の文化を投げ捨ててまで、外国におもねらねばならないのか、そうまでしなければ水産資源を確保できないのか、という問題だ。

これだけ広くしかも豊かな漁場を抱えていながら「そうだ。日本は世界の国々と協調しなければ十分に食卓の魚を確保できないのだ」という人は誰もいないだろう。ならば、思い切って外国との多少の摩擦は覚悟して、自国の文化を守り抜く選択肢もあっていいのではないか。

 興味深いのはJAZAが「苦渋の決断」として和歌山県太地町の追い込み漁で捕獲したイルカを今後、加盟水族館で「受け入れない」と決定したのとほぼ同時に、欧州連合(EU)の議会で、「フォアグラの輸入と販売を禁じる」とする提案が否決されことだ。JAZAは大騒動になったのに、こちらはほとんど海外でも問題視されず、むしろ今回の決定に「フランスの文化が守られた」とする人々が決して少なくない。
確かにフォアグラは美味であり、フランス料理でなくてはならない高級食材であるが、その作りかたはかなり不自然だ。ガチョウやカモの口に特殊な器具を挿入し、そこに柔らかく蒸したトウモロコシなどのエサを流し込み肝臓を太らせる。


これこそ「残酷」という部類に入ることは間違いない。JAZAの問題は根本にはクジラを食べる日本へのけん制という意味合いが強いが、海洋資源に恵まれた日本の国民が、その生命を維持するためクジラを食べることと、ガチョウやカモの肝臓を不自然に太らせることを比較した場合、いったいどちらが残酷な行為だと言えるのだろうか。

 日本人はここでハタと考えなければならない。クジラを食べることが「野蛮」ならフォアグラをつくることも「残酷」でなければならない。むしろ生命維持のため、人が食物連鎖のなかに組み込まれ、やむを得ずクジラを食することよりも、美味という人間にとっての快楽を得るために、ガチョウやカモを人工的に太らせる行為のほうが、倫理に反するはずだ。なのに実態は日本がクジラを食することが「黒」で、フォアグラは「白」というのが国際的なコンセンサスなのである。少なくとも日本が今後、生きていこうと考えている「国際社会」という枠組みではという話だが…。
日本は本当に大丈夫なのか。食文化も認めてもらえないそんな「国際社会」のなかで何を得ようというのか。クジラの問題は決着したとしても今後、いくつもいくつも同じ価値観の相違という問題が浮上してくることは間違いない。その度に日本は国を譲り、文化をあきらめ続けていくのか。
そろそろこの「国際社会」の枠組みを脱し、別の「国際社会」のなかで生きていく道を模索する段階に差し掛かっているのではないだろうか。(了)

日本は資源大国だ

⚫️JAZA問題が映すグローバル化の死角

 「JAZA」と聞いてピンときた人はほとんどいまい。Japanese Association of Zoos and Aquariums All Rights Reservedの略だそうで、日本語では『日本動物園水族館協会』が正式名称で日本にある水族館の大半がこれに加盟しているが、このJAZAが5月21日、一躍有名になった。

 さて、なぜJAZAが有名になったのか、、、。理由はイルカの入手方法だ。JAZAに加盟する日本の水族館の多くがイルカを和歌山県太地町の「追い込み漁」で捕獲したものを回してもらっているのだそうだが、これが「著しく残虐な行為」なのだそうだ。古来から捕鯨を文化とし、これを生業にしてきた漁師たちも多くいる日本にとって突然、古来からの捕鯨の手法を「残虐」と決めつけられてもただ驚くばかりなのだが、そう決めつけたのはJAZAの世界版にある『世界動物園水族館協会(WAZA、スイス)』だ。
JAZAの上位組織にあたり、このWAZAから「追い込み漁で捕獲したイルカを今後も使っていくなら除名だ」と言われれば、確かに困る。水族館は何もイルカだけで運営しているわけでなく、日本近海には生息していない世界各地の珍しい魚種も展示している。WAZAのルートで調達している魚も少なくなく、仮にJAZAがWAZAから離脱するようなことになれば、日本の水族館に世界の珍しい魚を回してもらえなくなる。むろん水族館の運営もいずれ立ちゆかなくなる。

「背に腹は代えられない」とはまさにことのこと。JAZAは太地町の追い込み漁で捕獲したイルカの調達を今後、見送ることを決めた。JAZAはWAZAに復帰、世界の珍魚を今後も斡旋、仲介してもらえることになり、存続に向け首はつながった。
ところがだ。問題の落としどころ、これでいいのだろうか。この事件、「たかが水族館の問題」と軽く見ていてはいけない。「捕鯨」という日本古来の伝統が完全に※蹂躙(じゅうりん)された。「鯨(イルカ)は聖なる生き物」とする欧米流の発想によってだ。
 
経済界や学界では今回のJAZAの判断におおむね賛成をとなえるところが多い。不用意な摩擦も避けられたという。だが、譲ったのは日本である。単にイルカ(鯨)の調達方法だけでなく、日本の文化そのもの、大げさに言えば魂を譲ったのである。自社のグローバルビジネスの環境さえ整えば、それでいいのだろうか。
グローバル化が進展するなかで、協調すべきところは協調すべき」との声は多い。ただ、今回の捕鯨問題はその「協調すべきところ」なのか何度も反芻しながら考えてみるべきである。決して譲ってならない領域ではなかったのか。
外交とは互いに尊重し相手の立場にも配慮しながら、進められるべきものだが、今回は単に日本が押し切られただけ。ほんの1㍉㍍も日本の主張は認められていない。日本は神経を研ぎ澄まし、ここにグローバル化の危うさを感じ取るべきである。無節操に譲り相手に迎合していくだけがグローバル化ではない。そのことを新ためてもう一度、肝に銘じるべきだ。(了)
※蹂躙(じゅうりん)…[名](スル)ふみにじること。暴力・強権などをもって他を侵害すること。「弱小国の領土を―する」「人権―」⇨「デジタル大辞泉」より
《関連記事》
▼「日本のイルカ漁は野蛮」(WAZA)〜頭がいいから「イルカ」はだめで、馬鹿だから「牛」や「豚」はいいのか?
http://lite.blogos.com/article/112605/

▼産経FNN世論調査 水族館イルカへのWAZA通告、「納得できない」7割
http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/politics/news/150525/plt15052512280010-s.html