琴言譚®︎[きんげんたん]

今、救世主なら語る

日本油田構想は死なず

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 日本で最大の油田が開発されるかもしれない――。そんな期待を込めて新潟県佐渡南西沖で進められた調査プロジェクトがある。時は2013年。沖に30㍍離れた地点で石油・天然ガスの埋蔵を確認するための調査プロジェクトだ。残念ながら「埋蔵は確認されず」(経済産業省)との結果となったが、詳細を調べてみると産油国ニッポンの可能性が閉ざされたわけではないことが分かってきた。なぜなら、政府はもちろん、この調査を請け負ったJX日鉱日石開発や出光興産など民間企業が再び日本近海での油田開発に手を挙げる見通しだからだ。
早ければ2016年にも「日本を掘る」プロジェクトが日本の領海内のどこかで再び動き出す。日本に本格的な大型油田が表れる日が近い。
2013年の調査はJX石油開発が国から受託する形で、4月14日から7月20日までの約3カ月の間に実施した。国と企業で合わせて100億円の調査費用をかけて実施した大々的なもので、地球深部探査船「ちきゅう」まで投入し、水深約1130メートル、さらに海底下約1950メートルを掘削した。そのうえで経済産業省が「埋蔵は確認されなかった」と公表しているのだから、「やはり日本には資源はない」ことが改めて明らかになったわけだ。
しかし、調べてみるとこれはかなり早計である。第1に国が100億円近くも投じた今回の調査にもかかわらず、これを請け負ったJX開発は1カ所しか掘削していない。にもかかわらず経産省は「調べるに値する地層が見つからなかった」とした。通常なら1つのエリアの探査をする場合、最低でも3カ所は掘削する。しかし、今回はたった1カ所を掘削した時点でその周辺部を掘削することをあきらめている。1カ所掘ってみて「調査に値しない地層」であることが分かったから「その近くを掘っても結果は同じ」というのだが、よくよく調べてみると、その1カ所の掘削結果は決して絶望的な内容ではない。それどころか、きちんと油分が確認されているのだ。経済産業省も正式に「岩石サンプルに油やガス成分があった」ことを認めている。ただ、それが「微量だ」という。予想通り油があることは確認できた、しかし、その割合が少なく採算ラインに乗るようなものではないというのだ。まるで、「日本には石油がない」ことをわざわざアピールするための調査のようにも思えるほどだが、それにしても、これほどあっさりとあきらめるなら、なぜ、掘ったのだろうか。
通常、油田があるかどうか調査に入る場合、まず、石油が貯まる器の有無を確認するのが一般的。入れ物がないのに中身があるはずがないのは道理で、形から入るわけだ。
ただ、石油の場合、その入れ物は通常のイメージとは異なる。逆さまなのだ。石油は水よりも軽く、そのため上へ上へと逃げようとする。これを阻止するために、お椀を伏せたような硬い岩で構成されたシール(帽岩)と呼ばれるキャップが必要になる。このシールの内側に、石油やそれが気化したガスが貯まるため、シールがあれば油田を形成する大前提が整う。従って油田を探査する場合はまずこのシールがあるかどうかを調べる。

新潟県佐渡南西沖の油田開発プロジェクト(※1)の場合、2009年の物理探査船「資源」の調査でシールの存在は確認ずみだった。しかも、これがかなり巨大である事実もつかんでいた。だからこそ経済産業省が「中東の中規模程度の油田が眠っている可能性がある」と公表したわけだ。確認できたシールが巨大の大きさから類推し、この巨大なシールの裏側に石油が貯まっていたとしたなら、中東の中規模程度の油田になるとの計算をはじいていたのだ。今回の掘削ではシールの内側を調べてみると残念ながらこれが発見されずに終わった。ただ、不思議なのはこの大きな入れ物(シール)があるだけで、経済産業省はそれを「巨大油田の可能性」ととったのかということだ。経済産業省はシールの存在はもちろん、その下に油田がある可能性も「予感」していたのではないか。そうでなければ100億円もの巨額資金を「資源がないのはあたり前」とされる日本の近海で投じるはずはない。資料を引き出してみると確かにその「何か」はあった。2003年、やはり新潟県佐渡南西沖で民間企業による油田調査が実施されており、そこで油があることが確認されているのだ。このプロジェクトに参加した企業はジャパンエナジー(当時)と出光興産。経済産業省と石油公団(現石油天然ガス・金属鉱物資源機構)の委託を受け、深度1000メートル近くの海底に井戸を掘り、埋蔵量などを確認する調査が実施されている。
この調査でシールの下に10メートルの厚さでハイドロカーボン(炭化水素)、つまり石油を含んだ地層が横たわっているのが確認され、いったんは2008年の商業生産に向け準備が進んだ。
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ただ、不思議なことにこのプロジェクトはいつのまにか急速に失速してしまった。当初は半潜水型海洋掘削(セミサブマーシブル)と呼ばれる開発手法まで具体的に検討された経緯があるのに、だ。海上施設から海底の油層に原油天然ガスをくみ上げる管を通し、管から吸い上げた原油天然ガスを製品化していく計画まで決まっていたが、「油があることは確認できた」(経済産業省)にもかかわらず「いざ商業生産」という段になって、プロジェクトは頓挫してしまった。

頓挫の理由は大きく言って2つ。

1つは水深。深度1000メートルというのは「かつてない深さ」(経済産業省)で、リスクが高く商業生産には向かないという理由だ。そしてもう一つの理由が陸地から離れすぎていること。この掘削ポイントは新潟県上越市の北方沖合30―50キロメートルのところに位置しており、これもまた「沖までの距離が遠くリスクも高過ぎるため商業生産には向かない」というのだ。

なるほど確かにそうだろう。しかし、よく考えてみると実に不思議な理由でもある。水深にしても沖合ポイントまでの距離にしても調査をする前から分かっているはずのことだからだ。政府は承知のうえで、ポイントを決め、掘削方法を選び、その後の商業生産までの計画まで策定しているのである。深度や距離が本当に理由なら、最初から調査は無意味だ。

プロジェクトの総額は30億円から40億円だったというが、それほどの巨費を投じ、しかも油があることまで確認しておきながら、不可解な理由で開発を途中で放棄してしまうのは、全く合点がいかない。政府のほうで何か大きな方針転換があったとしか考えられない。

その真偽はとりあえず置くとして、重要なのは、この2003年の調査ポイントが、2013年の調査ポイントからわずか10キロメートル程度しか離れていないということだ。
つまり10年前の掘削ポイントと2013年の掘削ポイントは同じシール上にあるわけだ。10年前、表向きには「商業的に採算ラインに乗らない」としておきながら、実はその隣接地で同じシールで再び掘削調査を実施しているのだ。
いったいこれはどういうことなのか。いったんは「油田として見込みはない」と判断したはずのシールの上をなぜ再び政府は掘ったのか。
実はこの事実こそ、このポイントに巨大油田があることを示唆している。この事実を見逃してはならない。政府は新潟県佐渡南西沖の掘削ポイントが有望であることを把握していながら、公式的には「油の成分は確認できたが、商業生産にのるほどではない」との発表を繰り返している。政府の発表とは裏腹に実際は油田がある可能性が高いのだ。だからこそ、掘削調査を繰り返している。こう考えるのが自然だ。実際、政府は今後も油田開発に向け調査は続けていく方針だ。
これまでほぼ3年に一度の割合で掘削調査が行われてきてが、今後も「大きく変える考えはない」(政府)という。このまま行けば、おそらく2016年には前回同様の調査が行われる。このことは政府がいかに油田開発に信念と確信をもって取り組んでいるかの証左でもある。
2015年3月末での国の借金は1053兆円。1円でも削りたいところなのに、1回あたり数十億から100数十億円もの資金が必要な掘削調査を今後も続けていくというのは並大抵ではない。JX開発はじめ出光興産など民間の石油元売り会社などもこれに応じる見通しで、新潟県佐渡南西沖での掘削調査も当然、続く可能性が高い。掘っては「ダメ」、掘っては「ダメ」と言い続け、その裏側で着実に開発は進む。これは日本に油田が眠っている証拠に他ならない。日本には油田が確実に眠っているのである。
もちろんそれを「詳細まで含めて公にするべきだ」というつもりはさらさらない。仮に公にすれば尖閣諸島問題で分かるように近隣の韓国はもちろん中国も領有権を主張し、複雑な紛争問題に発展しかねないからだ。静かに潜伏して進めればそれでよい。
そしてある日突然、日本の領海内で石油が沸けばそれでいい話だ。大切なのは日本が石油という太陽の恵みを着実にものにし、国を富ますことである。(了)

(※1)新潟県沖で石油・天然ガスの試掘開始、メタンハイドレートよりも早く商業生産へ《スマートジャパンより》
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/spv/1304/16/news099.html
新潟県佐渡南西沖において石油・天然ガスの試掘を開始しました
~探査船「資源」の探査結果に基づく初の試掘調査~《平成25年4月15日 資源エネルギー庁より》
http://www.meti.go.jp/press/2013/04/20130415002/20130415002.pdf

起死回生の鉱脈は足元にあり -ーニッポンに石油が沸いた-ー

⚫️ニッポンに石油が沸いた

噴き出した石油が止まらない――。何も中東の巨大油田地帯の話ではない。日本での出来事だ。2013年4月、新潟市秋葉区の住宅の敷地内から石油とガスが噴出、2年以上、たつにもかかわらず、沸きだした石油が今だ止まらないのだ。新潟市秋葉区の担当者は「今日も現地に視察に行ったのだが、有効な手立てはない」という。しかしだ。なぜ、この出来事、「有効な手立てを探す」といった類の話になるのか。これは僥倖である。省資源国ニッポンに石油が湧いたのである。これを見逃してはならない。日本国が世界で勃興するための足がかりとなるはずだからだ。
ことの次第はこうだ。4月27日、同区に住む山田隆さんの自宅の床下と隣接して所有する空き地の地面に突然、複数の穴が空いた。そしてこの穴から大量の泥水が溢れ出てきたのだ。しばらくするとこの泥水が異臭を放ちだした。よく嗅いでみると石油の匂いだ。山田さんはすぐさま役所に連絡、指示を仰いだものの役所側は慌てるばかり、そして今に至ったが、状況はなんら変わっていない。

もともと石油が噴出した新潟市秋葉区の新津地区は石油との縁が深い。「日本書記」にも「越国から燃土、燃水が献上された」とあり、その燃える土や水が採取されていたのは、この新津地区である。もっと近い歴史をたどれば、明治後期から大正にかけて新潟県内には4つの油田があり、今回、石油が噴き出した新津地区はそのなかでも最大級の新津油田があったエリア。1917年に年産12万㌔㍑と産油量日本1を誇った油田があった地域なのだ。

そこから石油が湧いた。掘りもしないのに、かなりの量が出たのである。1日300リットルを超える量がでる日もあり、石油は1カ月でドラム缶4本分にもなる。

⚫️早すぎるダメだし
石油がないはずの日本で、石油が自噴した。事実なら小躍りしてもいいはずの出来事なのだが、周囲の反応は意外に冷めている。秋葉区は「噴出した石油で公害が起きないようにしている」(区民生活課)とまるで危険物扱いで、石油やガスによる引火・爆発を防ぐため石油が噴き出した民家の周辺に「電気製品使用厳禁」や「火気厳禁」を訴える看板を接地して注意を喚起しているほど。当の山田さんも油の回収に1日に何時間も費やし、資金も100万円近くかけたと迷惑顔だ。

ただ、こうした周囲や当事者の反応には理由がある。新潟市国際石油開発帝石に噴出した石油の成分を分析してもらったところ「品質が悪く、使えるレベルのものではない」との結論だったというのだ。
確かにそうだろう。あえて掘削して掘り当てた石油ではなく、わざわざ地層の切れ目を縫って沸き上がってきた石油である。そのまま使えるほど品質がよいはずはない。泥も小石も水も混じっているのは当然だ。これをもって「使えない」と判断するのはあまりにも早計ではないか。


重要なのは日本の精製レベルの高さだ。エネルギー安全保障上の問題もあって日本は世界中のいかなる原油であっても、沸点などを調節しながらガソリンなど石油製品に仕上げていく精製技術を持つ。省資源国とされたが故にどんな原油からでもガソリンをとる力を懸命に磨いたのだ。例えば日本には※アラビアンライト原油と呼ばれるサウジアラビア産の軽質原油が回ってくることが多いが、この原油などは硫黄分が多い重い原油で、これを高性能の脱硫装置を使って硫黄を抜き、石油製品に仕上げていく技術などは世界最高水準だ。こういった技術を使えば、精製できない原油はない。新潟市秋葉区から噴き出した原油も当然、精製できないはずはない。それにも関わらず「品質が悪く、使えるレベルではない」というのはどういったことか。「日本には石油はないはず。あっても使えない」という固定観念に縛られ過ぎているのではないか。

⚫️黄金の国の設計図


 原油という蜜が流れる大地はそう多くにない。その蜜を求めて人類は海の底であっても掘り進める。例えば米メキシコ湾にエクソンモービル保有する油田などは現在、水深8600フィート(約2580メートル)の深さにある。このエリアでは年々規模の拡大が続いており、水深10000フィートを超える掘削リグの設置計画を持つ社もあるほどで、逆に言えばそこまでパイプを延ばさなければ、掘削地点にまでたどり着かないのだ。しかも、その海底の掘削ポイントには何も石油がにじみだしていたわけでも、ましてや自噴していたわけでもない。超音波などで技術を駆使してようやく割り出している。
それから考えればどうだろう。新潟市秋葉区には石油が自噴する、しかも陸上のポイントがある。これほどの僥倖を見逃していては、神の恩寵を取りこぼしているといっても過言ではないだろう。(了)

※アラビアンライト原油とは…
http://www.weblio.jp/content/アラビアン・ライト原油
《関連記事》
日本経済新聞2013.8.22『国際帝石、新潟市の石油噴出にトラブル解消支援』
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXNZO58801610S3A820C1L21000/
新潟日報2013.8.19【新潟石油頻出】止まらぬ石油、住民悲鳴-1200リットル以上を回収-民有地からの石油噴出に行政は手出しせず
http://azarami.blog.fc2.com/blog-entry-809.html?sp

海洋大国ニッポン、『脱』欧米化で次代を拓け

⚫️海洋大国ニッポン、『脱』欧米化で次代を拓け

日本は小さな島国ーー。確かにそうだ。領土面積はわずか約38万平方キロメートルと狭く、世界でみると第61番目のポジションにとどまる。ロシアの45分の1、中国や米国と比べても25分の1に過ぎない。

ところが国土の周りの海に目を転じてみるとどうだろう。領土は一気に広がりEEZ排他的経済水域)と領海を合わせるとその広さは世界第6位にまで広がり、世界でも有数の海洋国家としての側面が浮き彫りになる。
しかも領海のほとんどは1年間を通して凍ることがない。年間を通じて漁業を営むことができ、暖流と寒流が入り交じる多彩な漁場を抱える領海を有する国は世界でもほとんどない。大陸棚が広がっているかと思えば日本海溝のような深海もあり、このおかげで魚種も極めて豊富だ。イワシのような小魚からイルカやクジラのような大型魚種まで幅広く生息しており、食糧の安全保障上、かなり利点は大きい。

仮に捕鯨問題などがこじれ日本向けの水産資源の輸出がストップしたとしたらどうだろう。実は「全く問題がない」というのが正解だ。もちろん燃料費や人件費などを加味し、採算ベースで考えていけば、今のような価格帯で水産資源を安定確保するのは難しいかもしれない。しかし、価格をいったん横に置けば、日本は自給自足していけるだけの水産資源の量を確保していくことは十分に可能だ。
今回の水族館のイルカ入手問題で日本動物水族館協会(JAZA)が外国に屈した事件は、極めて重要な問題を提起している。日本は自国の文化を投げ捨ててまで、外国におもねらねばならないのか、そうまでしなければ水産資源を確保できないのか、という問題だ。

これだけ広くしかも豊かな漁場を抱えていながら「そうだ。日本は世界の国々と協調しなければ十分に食卓の魚を確保できないのだ」という人は誰もいないだろう。ならば、思い切って外国との多少の摩擦は覚悟して、自国の文化を守り抜く選択肢もあっていいのではないか。

 興味深いのはJAZAが「苦渋の決断」として和歌山県太地町の追い込み漁で捕獲したイルカを今後、加盟水族館で「受け入れない」と決定したのとほぼ同時に、欧州連合(EU)の議会で、「フォアグラの輸入と販売を禁じる」とする提案が否決されことだ。JAZAは大騒動になったのに、こちらはほとんど海外でも問題視されず、むしろ今回の決定に「フランスの文化が守られた」とする人々が決して少なくない。
確かにフォアグラは美味であり、フランス料理でなくてはならない高級食材であるが、その作りかたはかなり不自然だ。ガチョウやカモの口に特殊な器具を挿入し、そこに柔らかく蒸したトウモロコシなどのエサを流し込み肝臓を太らせる。


これこそ「残酷」という部類に入ることは間違いない。JAZAの問題は根本にはクジラを食べる日本へのけん制という意味合いが強いが、海洋資源に恵まれた日本の国民が、その生命を維持するためクジラを食べることと、ガチョウやカモの肝臓を不自然に太らせることを比較した場合、いったいどちらが残酷な行為だと言えるのだろうか。

 日本人はここでハタと考えなければならない。クジラを食べることが「野蛮」ならフォアグラをつくることも「残酷」でなければならない。むしろ生命維持のため、人が食物連鎖のなかに組み込まれ、やむを得ずクジラを食することよりも、美味という人間にとっての快楽を得るために、ガチョウやカモを人工的に太らせる行為のほうが、倫理に反するはずだ。なのに実態は日本がクジラを食することが「黒」で、フォアグラは「白」というのが国際的なコンセンサスなのである。少なくとも日本が今後、生きていこうと考えている「国際社会」という枠組みではという話だが…。
日本は本当に大丈夫なのか。食文化も認めてもらえないそんな「国際社会」のなかで何を得ようというのか。クジラの問題は決着したとしても今後、いくつもいくつも同じ価値観の相違という問題が浮上してくることは間違いない。その度に日本は国を譲り、文化をあきらめ続けていくのか。
そろそろこの「国際社会」の枠組みを脱し、別の「国際社会」のなかで生きていく道を模索する段階に差し掛かっているのではないだろうか。(了)

日本は資源大国だ

⚫️JAZA問題が映すグローバル化の死角

 「JAZA」と聞いてピンときた人はほとんどいまい。Japanese Association of Zoos and Aquariums All Rights Reservedの略だそうで、日本語では『日本動物園水族館協会』が正式名称で日本にある水族館の大半がこれに加盟しているが、このJAZAが5月21日、一躍有名になった。

 さて、なぜJAZAが有名になったのか、、、。理由はイルカの入手方法だ。JAZAに加盟する日本の水族館の多くがイルカを和歌山県太地町の「追い込み漁」で捕獲したものを回してもらっているのだそうだが、これが「著しく残虐な行為」なのだそうだ。古来から捕鯨を文化とし、これを生業にしてきた漁師たちも多くいる日本にとって突然、古来からの捕鯨の手法を「残虐」と決めつけられてもただ驚くばかりなのだが、そう決めつけたのはJAZAの世界版にある『世界動物園水族館協会(WAZA、スイス)』だ。
JAZAの上位組織にあたり、このWAZAから「追い込み漁で捕獲したイルカを今後も使っていくなら除名だ」と言われれば、確かに困る。水族館は何もイルカだけで運営しているわけでなく、日本近海には生息していない世界各地の珍しい魚種も展示している。WAZAのルートで調達している魚も少なくなく、仮にJAZAがWAZAから離脱するようなことになれば、日本の水族館に世界の珍しい魚を回してもらえなくなる。むろん水族館の運営もいずれ立ちゆかなくなる。

「背に腹は代えられない」とはまさにことのこと。JAZAは太地町の追い込み漁で捕獲したイルカの調達を今後、見送ることを決めた。JAZAはWAZAに復帰、世界の珍魚を今後も斡旋、仲介してもらえることになり、存続に向け首はつながった。
ところがだ。問題の落としどころ、これでいいのだろうか。この事件、「たかが水族館の問題」と軽く見ていてはいけない。「捕鯨」という日本古来の伝統が完全に※蹂躙(じゅうりん)された。「鯨(イルカ)は聖なる生き物」とする欧米流の発想によってだ。
 
経済界や学界では今回のJAZAの判断におおむね賛成をとなえるところが多い。不用意な摩擦も避けられたという。だが、譲ったのは日本である。単にイルカ(鯨)の調達方法だけでなく、日本の文化そのもの、大げさに言えば魂を譲ったのである。自社のグローバルビジネスの環境さえ整えば、それでいいのだろうか。
グローバル化が進展するなかで、協調すべきところは協調すべき」との声は多い。ただ、今回の捕鯨問題はその「協調すべきところ」なのか何度も反芻しながら考えてみるべきである。決して譲ってならない領域ではなかったのか。
外交とは互いに尊重し相手の立場にも配慮しながら、進められるべきものだが、今回は単に日本が押し切られただけ。ほんの1㍉㍍も日本の主張は認められていない。日本は神経を研ぎ澄まし、ここにグローバル化の危うさを感じ取るべきである。無節操に譲り相手に迎合していくだけがグローバル化ではない。そのことを新ためてもう一度、肝に銘じるべきだ。(了)
※蹂躙(じゅうりん)…[名](スル)ふみにじること。暴力・強権などをもって他を侵害すること。「弱小国の領土を―する」「人権―」⇨「デジタル大辞泉」より
《関連記事》
▼「日本のイルカ漁は野蛮」(WAZA)〜頭がいいから「イルカ」はだめで、馬鹿だから「牛」や「豚」はいいのか?
http://lite.blogos.com/article/112605/

▼産経FNN世論調査 水族館イルカへのWAZA通告、「納得できない」7割
http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/politics/news/150525/plt15052512280010-s.html